今日は、和食(松茸の土瓶蒸し)が教えてくれた大切なことを書きます。
私たち人間は、目に見えてつかみ取れる「形あるもの」と、感情や時間、記憶、色や光のように「形なきもの」の、2つから影響を日々、また刻々と受けています。また、個人的な日々の雑感として、形あるものと形なきものの、どちらを自分の決断の根拠の拠り所としているか、個人によってパターンがあるなと感じることがあります。証拠や型、事実を重んじ、ひたすら実践によって進んでいくタイプの人と、想像力や共感力、由来、行く先などに思いを馳せながら歩む道を定めていくタイプ、と、ここでは簡単に分けてみます。
私は言わずもがな、思いを馳せるタイプでありますが、そんな私は松茸の土瓶蒸しに無性に心を惹かれる性分です。つい先日も、今年の秋に初めて見つけたこともあり、松茸の土瓶蒸しをとあるお店で頼みました。松茸の土瓶蒸しは、手頃な価格では決してないですが、その存在へのエールとしてオーダーするほどに、私は大好きです。
このお料理の素晴らしさは、秋の味覚(松茸、鱧、銀杏、三つ葉など)が、調理によって単体よりも香り高く、味わい深くなり、かつハーモニーを奏でていること、そして、その全てが小さな美しい土瓶に収められていること。御猪口と酢橘がくっついて、秋から宝物を贈られたような、そんなお料理です。
この素晴らしい香りと味のギフトは、時に、同席した実践重視タイプの知人からすると、手ごたえの少ない、どこか勿体無い感じのもの、と、とらえられることもあるようでした。そのような発言をした知人は、「自分は、刺身などの素材そのものの味や歯応えを感じる時に、その料理に心惹かれる。」と話していました。和食には、素材そのものを活かす料理もある一方、松茸の土瓶蒸しのようにお出汁という形のない状態のものに、季節の最高のものを封じ込めるような料理もあるということは、形のないものの力を追求する側面も同じようにあるのです。
日本文化は、型を重んじる文化ですが、その一方で、形がないものも、移ろいゆくもの、儚く消えるものも、だからこそ同じくらい当然に尊重する側面もあったのだと、松茸の土瓶蒸しは教えてくれました。